編集委員 武藤 玲
ゲームのように恋ができたら、恋をするたびに、相手のちょっとした言葉や仕草にいちいち悲しくなったり、その反対に有頂天になったり、眩暈がしたり、恋をしているときの自分のあまりの傷つきやすさに、ときどき思うことがある。ゲームを楽しむように恋愛ができたらどんなにいいだろう。そう、今度こそは、ゲーム感覚で心に余裕のある恋をしようと心に決めたりする。だが、いまだにゲームを楽しむように恋愛をしたことがない。
心に拍車がかかるように相手を好きになっていくうちに、ゲーム感覚なんて余裕はなくなってしまう。というより、ゲーム感覚でコトが進んでいるうちは、まだ本当の恋になっていないといったほうがいい。恋愛とゲームは似ているようで、まったく似ていないものらしい。いったい恋愛とゲーム、どこが違うのだろうか。
まずゲームにはルールがある。でも恋愛にはルールがない。もうあなたしか見えないとか、ずっとあなただけを愛しますと、恋が最高潮に高まった時点で囁いても、時間とともに気持ちは変わり、ほかの誰かに心が移っていくのはよくあること。あのときのあの言葉は何だったの、嘘だったの? なんて、心変わりを責めたい気持ちはわかるけど、それは野暮以外の何ものでもない。すでに心がほかへ移ってしまった人へ、そんな言葉を投げかけても、ますます気持ちは遠ざかるばかり。心変わりを本気で責めるなど、恋にルールがないことを心得てない愚かな人でしかない。
考えてみれば、結婚した途端、熱がどんどん冷めていくというのは、ごく当たり前かもしれない。だって男と女の関係にはもともとルールなんてないのに、結婚という制度は無理やりルールを作って、お互いを縛ることになりかねないのだから。
さてゲームでは、勝つか負けるかしかない。でも恋愛では、勝つか負けるかなんて問題ではなく、愛されているかどうかだけが問題で、どんなにほかの人から美しいとか頭がいいとか褒められようとも、肝心の好きな人から認められ、愛されなければ、なんの意味もない。あんな人より、私のほうが綺麗なのに、なぜ彼は彼女を選んだの? などと悩んでも意味がない。恋は美人コンテストではないのだから。
ゲームでは、ほんのいくつかの事項や要素だけが評価の条件になるのに対し、恋愛では、評価の条件が無数にある。だから、気が弱い、臆病などという欠点も、愛する人にとっては、優しさという長所として見えたりする。だが恋をしている人は、熱中や快感だけでなく、至福感からどん底の悲しみまで、ありとあらゆる感情の端から端までを味わう。
自分の弱さも嫌なところも、恋愛はさらけ出してしまう。あたかも記憶を失っていた人が、突然鮮明な記憶を取り戻すように、恋は心の中で眠っていたすべての感情を蘇らせる。恋に落ちた人は、自分がそんなにいくつもの感情をもっていたことに驚くはずだ。
本当の恋愛はしんどい。ゲームのように、熱中や快感だけを味わいたいと思っても、そうはいかない。でもゲームは結局、何も作り出さないし、さしたる影響を人生に与えたりもしない。もっとも、ゲームソフトの開発で大金を手にする、ゲーム機のギャンブルで大勝ちする、コンピューターを駆使したマネー・ゲームで億万長者になるなど、人生が大きく変わることもあるようだが、これらは例外中の例外。それに対して恋愛は、何かを生み出し、人を成長させる。
ところで、ごくごくまれにスポーツやゲームを楽しむように恋愛を楽しめる人がいる。しかし、ゲーム的恋愛を積み重ねてきただけの人と体当たりで恋愛をくぐり抜けてきた人とでは、年齢とともに差が出てくる。一度や二度は、女性あるいは男性との関係でとことん傷つき、悩んだ者でなければ、大人の魅力や色気は出てこないのではなかろうか。痛くつらい思いをしたり、本当に心が触れ合う経験をしなければ、人は美しく磨かれない。人は自分が与えただけしか掴み取ることはできない存在のようだ。
恋愛にはマニュアルがないのが鉄則で、それを身をもって学ぶには大きな自然の懐で戯れるしかない。ゲームは、ほんのいくつかのシンプルな条件のもとで競い合うもので、所詮、仮想世界の片隅のことなのだ。だけど恋愛は全世界を包み込み、さらに時間さえもあっさりと超えてしまう。そう、なんといってもゲームと恋愛とではスケールが違うのだ。
しかしなぜか、その反対だと考えている人たちも多い。恋愛なんて小さな世界のことで、政治や仕事こそ世界のすべてだと考えている人たちもいる。でもそれは恋愛が何であるかをよく知らないか、あるいは本当の恋愛を避けてきたからじゃないか、と私は思ってしまうのだ。残念ながら、ゲームのように恋愛はできない。恋する人は、好き嫌いを問わず、あらゆる感情の波を受け止め、それに自らをゆだね切ることこそ恋愛なのだとあきらめるほかなさそうだ。