編集委員長 真屋 尚生
今年2016年夏、第31回リオ・デ・ジャネイロ五輪競技大会での日本「選手」の活躍は目覚ましく、連日大きく報道された。終わってみれば、ドーピング違反による多くのロシア選手の不参加もあり、日本「選手」のメダル獲得総数は過去最高に達した。五輪に続くパラリンピックでも日本「選手」が躍動し、多くの日本人の心を揺さぶった。でもねえ、観戦も含め、この種の行事に直接参加できるのは、ほんの一握りの人たちだけだし、私はスポーツ嫌いではないが、みんながみんなスポーツ好きというわけでもない。
五輪に出場するほどの選手の大半は、今やスポーツを職業とする事実上のプロ[フェッショナル]といって過言でなく、オリンピック運動の創始者ピエール・ド・クーベルタン男爵がオリンピックの理念として唱えた、スポーツを通じての金銭的報酬を禁止し排除する、アマチュアリズムとは無縁の存在となっている。少なくとも私にはそのように見えるが、それが必ずしも悪いわけではない。
だが私は、国家行事化し、政治利用されている五輪に、熱くなることができない。
1世紀を超える歴史を有する近代五輪競技大会は、この間に、その性格を大きく変えてきた。それでも、五輪憲章(2015年8月2日から有効)が掲げる7項目の「オリンピズムの根本原則」では、「人間の尊厳」と「人類の調和のとれた発展」がうたわれているが、「国家」の繁栄とか名誉などの文字は、どこにも見られない。それどころか、次のように「国家」の介入を排しているように思われる。「オリンピック憲章の定める権利および自由は……政治的またはその他の意見、国あるいは社会のルーツ……などの理由による、いかなる種類の差別も受けることなく、確実に享受されなければならない。」
ところが、なぜか現実はまるで違う。リオ五輪日本代表選手団団長は、元スケート選手の前歴が売り(?)の族議員。首相と都知事は、政策課題山積の最中に競技とは無関係な閉会式への公務(?)出張。東京五輪・パラリンピック競技大会組織委員会会長は、傘寿目前にして意気衝天(?)の元首相。数え上げれば、きりがない。複雑怪奇にして単純明快! 金と政治が怪しくからむ五輪。2020年の東京五輪のエンブレムや競技場設計などをめぐる不明朗な話題は、フェア・プレイの精神からはほど遠く、海外のメディアは、東京五輪を「The Yakuza Olympics」と報じている。
本音をいえば、東京五輪を中止して、社会保障に金を回してほしいところだが、まず無理だろうから、せめて組織と運営だけでも透明性の高い公明正大なものに一新してほしい。
2004年のアテネ五輪の前後1年あまりをイギリスで過ごしていたとき、私は、イギリスの市民社会としての成熟度の高さを、あらためて実感した。2004年8月22日午後(日本時間23日深夜)、私はアテネ五輪女子マラソンをテレビ観戦していた。優勝候補の筆頭は、当時の世界記録保持者でイギリス期待のポーラ・ラドクリフ選手。その彼女が、35-36キロメートル地点で4位に落ち、金メダルどころか銅メダルも絶望的になった。優勝は日本の野口みずき選手。とても興味深かったのは、ここからである。
競技翌日のイギリスの新聞の第1面は、高級紙・大衆紙ともに、ほとんどすべて、途中でレースを棄権したラドクリフに関する記事で、彼女が取り乱し、路端で泣き崩れている大きな写真が付いていた。
その一方で、優勝した野口についての記事は実に簡単なもので、彼女の記録がラドクリフのもつ世界記録より10分以上遅かったことを伝えるだけ。どの新聞の記事も解説も、ラドクリフの敗因は「暑さ」という点で、ほぼ一致しており、イギリス人を含む北ヨーロッパ人は、暑い時期・土地でのレースには、少々の練習を積んで臨んでも、体質的・人種的に勝てない、という専門家の意見が紹介されていた。
もっと印象的だったのが次の論点である。彼女が「つぶれたこと」には比較的同情的な論調が多かったのに対し、「つぶれ方」に対しては手厳しい見方が多かった。とりわけ、感情を制御できず、人前で涙を見せ、取り乱した姿をさらしたことが、イギリス人の美意識に反したようで、容赦のない批判が紙面をにぎわした。世界記録保持者であり、イギリスの期待を担っていた彼女は、レースに敗れても、マラソンの女王らしい態度を保持すべきであった。
その一方で、これまでにも、世界記録保持者として、五輪に出場したイギリス選手が、何人も期待を裏切る結果しか出せなかったことなどを取り上げ、彼女もイギリス人好みの悲劇の英雄(英雌?)になりそうだ、といった論調も目立った。
広告主と権力に弱い日本のメディアに学んでほしかったのが、現代五輪の本質をうがつ競技時間に関する記事だった。アテネの気温・天候を考えると、マラソンなどは、気温が低い朝行うべきであり、通常は、こうした点への配慮がなされるが、昨今の五輪では、テレビ中継放送との関係で、大口のスポンサーが多いアメリカで視聴率を稼ぐことができる時間帯に、競技を行うことになる。五輪が商業化すると、競技の特性や選手の健康などより、ビジネスの論理が優先される。それで選手の懐も潤う。
ローマでのアベベ・ビキラ選手の裸足の快走に世界が驚愕し、東京での東洋の魔女たちの回転レシーブに日本が沸きかえった時代とは違う。少し覚めた目で、東京五輪を楽しんではどうだろう。ちなみに、ときどき頭の体操はするが、交通費節約と地球環境保全のために歩く以外、運動は一切しないで、好きなものを飲み食いし、万事にこだわらないのが、目下の私の健康法。これで楽しく年齢相応に元気に暮らしている。