社会保険新報 平成29年3月号

社会保険新報2017年3月号表紙

2017年3月号

桜満開の上野恩賜公園・不忍池(台東区上野公園)

【コラム東西南北】あいつは男だと呼ばれるためにあとどれくらいの道を歩けばいいんだろう

編集委員 武藤 玲

イラスト:東西南北

馴染みの料亭の女将さんが、しみじみ言うのだった。

「あなたは毎日忙しい忙しいと走り回っているけど、いつまでも今みたいに走れないのよ。仕事がなくなって、時間ができたらどうする気? 何かやることあるの?」

先んじて己の世界をもっている人が、好んで言う台詞である。いつもなら気にも留めずにやり過ごすのだが、なぜかそのときは、その言葉が心に響き、ギクっとしたのである。

確かに、いざリタイアしたらやることがないという話は、よく聞く。私だけは大丈夫と思っていた。映画を観たり、芝居に行ったり、本を読んだり。いつか時間ができたらやりたいことはいっぱいあると思い込んでいたのだが、考えて見れば、それらは仕事につながっているからこそ気持ちも高揚するのであって、来る日も来る日も、ただ劇場を巡り、本を読んでいて、果たして楽しいだろうか。「趣味は何ですか?」と聞かれるたびに、映画も芝居もイベントもみんな仕事と絡んでいるので、純然たる趣味というのは何だろう…。

いつか定年がくるということはわかっているのだ。若い頃、散々会社の厳しい仕事に組み込まれ、夜遅くに疲れ切って我が家に帰るとき、サラリーマンたちは、「あ~、もうこんな生活はいやだ。自分で自分の時間の使い方を決めたい」と思ったことがあるに相違ない。その夢にまで見た日が、定年という形でやってくるのだ。定年は突発的にやってくるものではない。定年後まで、会社に自分の仕事を設定してもらおうなんて、みじめな限りだろう。人生の最後に、せめて人間は自分自身の時間の使い方の主人になるのが自然だ。

社会というものは、基本的に人のことは正当に評価しない。そして、世間の評判は、たぶん常に自分自身で描く期待以下にしか見ない。家にいるときは、くたびれて仏頂面をしたくなるほど勤めなければ会社で頭角を現せないのならば、それはその人の力量がそれほどではないという証拠なのだ。努力家という人は、本当は困った存在なのである。怠け者を自覚している私は、他人にも会社にも社会にも、負い目があるから、決していばらない。世間が自分をどう評価するかということが気になってならない人というのは、やはり本質的に自信がないのだ。

さて、馴染みの女将さんの言葉を反芻してみた。

自分が考えている世間と職場の仲間は、定年とともに消えてしまうのだ。これからの世間は好みの仲間、本当に好きなことを語り合う人々である。定年を過ぎると収入が減る場合が多い。でも、心配はない。定年後にふさわしいお金の使い方を考えればよいのだから。

それにはまず、職場のために使っていた慣用を削り、終身雇用の職縁社会に生きていた人々は、生活のリズムや服装も、娯楽や話題探しも、職場の雰囲気に合わせてきた。定年後は、そんな必要はない。再雇用や再就職しても、職縁社会は戻ってこない。これからは、自らの誇りと楽しみのため、自分の好きなことにはお金も時間もかけよう。


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