編集委員 加藤 孝一
私が小学校4年生か5年生の頃だったと思います。時代は今から60年近く前の九州南国の田舎村になります。時は第一次ベビーブームで1クラス54〜55人のクラスが3つありました。
そのようなときに、新任の女のX先生が担任として赴任されてきました。この先生となぜかわかりませんが、なるべく一緒にいたくて、授業が終わって、先生が教室におられる間は教室に残っていて、この一緒にいる時間がなんとなく楽しかった。そのうちに先生の仕事の手伝いをするようになり、ガリ版刷り(昔はコピー機がなかった)を手伝ったり、今だったら大問題なのでしょうが、正解用紙を見て、テストの採点を手伝ったりしていました。
あるとき、手伝いに夢中になり、先生も職員室で仕事をされていて、私がいたことを忘れられていたのだと思いますが、気がつくともう遅い時間。あわてて先生に挨拶もしないで急いで駅まで行きましたが、最終の汽車は出た後――小学校に汽車で通学していたのです。どうやって帰ろうかと駅の待合室で困っていました。ちなみに私の家までは山道4キロくらい。怖いな〜 !
偶然なのですが、そこへ同級生のS子ちゃんのお母さんが入ってきて、「どうしたの」ということになり、駅員さんに話しをしてもらったところ、最終の貨物列車があるからこの貨物列車で帰そうということになりました。貨物列車の車掌室に乗せてもらって、普段は通過する無人駅で停車してもらい、無事帰ることができました。
家に帰って"五右衛門風呂"に入り、ご飯を食べ、宿題をしていると、夜7時か8時頃(外は薄暗かったのでそんな時間)だったと思います。あわてた様子の先生が来られました。「加藤君は帰っていますか?」私の顔を見て安心した顔、そして涙――女の人の涙で胸がキュンとなったのは、後にも先にもこれだけかな!?
今でも気になっていることがあります。先生は途中には何もない4キロの山道を一人で歩いて来るのは怖かったろうな! 私が「歩いて帰っていると思い、追いかけて来た」と話されていました。帰りはどうされたのだろうか。車もタクシーもまだ一般的ではなかった時代のこと。
先生とは中学生の頃まで季節の挨拶のやりとりをしていましたが、あるとき苗字が変わって、福岡から手紙がきました。ただ結婚されたという言葉は入っていませんでした。この訳が40数年後の同窓会でわかることになるのですが、これはまたの機会にお話しできるかな?
今だったら大問題になりそうなことを、昔の大人たちはすぐに動いてくれました。戦争が終わって10年くらい。生活は苦しかったはずだけど、気持ちに余裕があったのでしょうね。先生、父母、鉄道員、何の問題にもならずに、一人の子どもが夜、家に帰り着きました。今でも人の親切というよき思い出を心に残しています。
私の母親が亡くなったのは、私が5歳のとき。母親のイメージはほとんどなく、数少ない写真でこんな感じだったのだと思うくらいでした。先生の当時のイメージは、若くてスマートでした。卒業写真などで見てみると、ふっくらとした先生で、なんとなく写真の母親に似ているような気がします。