社会保険新報 平成27年9月号

社会保険新報2015年9月号表紙

2015年9月号

上野公園と東京国立博物館
(台東区上野公園)

【コラム東西南北】左と右

編集委員 森 浩志

イラスト:東西南北

「会議の席で話がかみ合わない」「何を言っているのかわからない」「質問の意図がわからない」ということがよくある。違う部門の社員たちが出席する会議では、話が伝わっていなかったり、相手に理解されていなかったりする。話が通じる者同士で議事が完結し、理解できない者が取り残されることもある。一つひとつ質問すると時間もかかって話が進まなくなるので、こっそり隣にきいてみたりする。

ある社員が「手裏剣とクナイは、刃が鋭いので処分した」と言う。手裏剣は想像がつくが「クナイって何だ?」と思い、隣にきいてみると、「こんな形をした…」と言って絵を描きながら「忍者の道具だ」と教えてくれる。が、その間に議題は進んでしまっていて、またわからなくなる。このような思いを何度もしていると、会議に出たくなくなる。

『社会保険新報』編集委員会の編集会議では、そのようなことがない。相手の話していることも十分理解できるし、自分の話すことも伝わっているようだ。それはなぜか…と考えると、答えはすぐに出る。共通の知識や認識、経験等があり、それが共有されていて、会話や議論が成り立つからである。

私が会社で、「傷病手当金は、療養のために労務に服することができない日ごとに、標準報酬月額の30分の1のさらに3分の2が支給される」と発言したところで、みんな判然としないだろう。「標準報酬月額」がわからないのである。わかるのは、人事担当の社員だけである。私にクナイがわからないのと同じ。共通の知識や認識、経験等がないのである。『社会保険新報』編集委員会で「標準報酬月額」と言ってわからない委員はいない。が、読者のなかには社会保険業務の初心者もいるはずだから、その点は気をつけなければいけない。

先日、昔の友人とお酒を飲む機会があった。といっても、私は下戸のうえに、医者から薬との相性が悪いため飲酒を禁止されているので、ウーロン茶でお腹をチャプチャプにしながら、彼の愚痴を聞いていた。すると、彼は酔いながら、突然こう言いだした。

「君は鏡を見て不思議に思ったことはないかい? 字を鏡にうつすと左右が逆になるだろう。たとえば、時計が鏡にうつると字が逆だ。うちの床屋はそうなんだよ」

どこの床屋でもそうだろう。なにも君の通っている床屋だけが特別じゃないと、内心おかしくなった。

「それは裏返しってことだろう? 左右が逆にはならないだろう?」と私が答えると、彼は、「鏡の中の俺は左利きだぞ」と言う。「鏡の中に人なんていないよ。君は鏡の国のアリスかい?」「そうじゃないよ。上下は反対にうつってないじゃないか。左右が逆なのに上下が逆にならないのはおかしくないか?」彼は真剣である。「上下が逆になったら、使い勝手が悪いじゃないか」とからかうと、「君は僕をバカにしているのか?」と憤慨した様子である。仕方なく私も真面目に、「いいかい。左も右も、上も下も、本来絶対的とは言えないんだ。ある程度発達した生物が、重力を感じて上下を認識し、餌を捕食するために口ができて目ができた。頭が前で、尾は後ろだ。上下を軸に両側に発生した目を左右とした。そんなところだろう」

そう言いながら、私はカバンからノートを出して、x・y・zで線を引き、立体図形と鏡のつもりで四角を描いて、「x軸が奥行、y軸が上下、z軸が横方向とすると、x軸は前後のプラス・マイナスが反対になるけど、縦と横は反対にならないだろう。左右が逆なのに上下は逆にならないのはおかしいと言うのなら、それは君の脳みそと目と体がそう認識しているだけだよ」と説明した。彼は私の描いた図をじっと見ていたが、突然「君は卑怯だ」と言ってノートを閉じた。「上下が反対にならないとつり合いがとれないんだ」と、彼は完全に酔っぱらっている。

私は、「上下も反対というのなら、それは鏡ではなくカメラだよ。上下が反転しないのは、生物が初めて感じとった方向だからだろう。植物だって上へ伸びるじゃないか。もうこのへんにして帰ろう」と言って席を立ち、トイレに行った。トイレの鏡を見ながら、左手を上げてみる。鏡には、腕時計をした私の左手が上がっている。右手を上げてみる。鏡の右側に手が上がっている。頭は鏡の上半分に、その下に首とネクタイ。当たり前のことだ。逆立ちしているわけではない。なぜ彼は突然そんなことを言い出したのだろう。モラトリアムの時代へ戻ってしまったのか。それとも、仕事のしすぎで適応障害か神経症にでもなったのだろうか。話は平行線のまま議論にならない。

やはり、知識や認識、経験等が同じではないのだろう。彼と別れた後、自宅へ帰り、インターネットで"鏡 左右"と調べてみた。彼と同じ疑問を抱いている人のなんと多いことか。ご丁寧に本まで出ているようである。今度一読して、彼に教えてあげようと思った。ところで、「クナイ」だが"苦が無い"と書いて「苦無」だそうである。


一般財団法人 東京社会保険協会
〒160-8407 東京都新宿区新宿7-26-9

  • サイトマップ
  • サイトマップ
  • お問い合せ